治世の究極の目標は、「仁」である。
仁とは、正しいということである。だが、なにが正しいのか、神ならぬ人間には知り得ぬことである。
だが、だからこそ、より正しきものに一歩でも近づくべく努力をする。これが「道」である。柔道の道、剣道の道、華道の道、茶道の道、仏道の道、君子の道、これ皆、「正しきもの」へ近づく努力をいうのである。
ゆえに、孔子もいわく、明日に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。仁に至る道を獲得できるのであれば、その日のうちに死んでも悔いはないと。
さて、仁が大事だということは分ったが、では具体的にどのようにしたら仁に近づくことができるのであろうか。
そのための道具が、「中庸」である。
中庸とは、偏らぬこと、最適であること、当たり前の正しさということ、である。
仁に適うべく正しいことを行なおうとしても、人間の心は不可避的に偏りを持つ。ゆえに、偏らぬように常に注意を払うことによって道から外れることを防ぐのである。
だが、偏らぬように注意していてもなお、知らず知らずのうちに考えが偏るのが人間というものである。ゆえに、それへの備えとして、「格物知至」(大学)がある。
「物格ってのち知至る」すなわち、十分な情報を得て、初めて知性が生まれ、正しい意見を持つことができるということである。
現代社会で言えば、これは「言論の自由」に相当する。言論の自由によって提供される様々な情報や知識を偏りなく学んでのち、はじめて中庸を得ることができるのである。
だが、言論の自由があってもなお、人間の心というものは偏見を捨てることができないものである。言論の自由が制限されている韓国や中国はいうまでもなく、自由な言論のある欧米においてさえ、無知から生じる偏見は無くならない。
それは、相手に対する「思いやり」が無いからである。相手がなぜ自分達と違った考えをするのかを思いやる姿勢が欠落していると、いくら多数の情報があっても、それを知ろうとはせず、結果、中庸を得ることはできないのである。
「言論の自由」と「思いやり」は、中庸を支える両足であり、どれかが欠けても、あるいは突出しても、中庸では無くなる。
たとえば、よく日本では「中国や韓国への思いやりが大事だ」という評論家センセイがいるけれども、それはあくまでも中庸を得る為の、あるいは中庸の範囲内 での思いやりでなければならない。中庸を外した思いやりは、思いやりではなく、単なる甘やかしであり、そのような行為は、相手も日本も、そして第三者をも 不幸にする結果しか生まない。
卑近な例でいえば、躾をせず、甘やかし放題で育った犬は、やがて隣人を噛み、保健所で処分され、買い主も傷心を負うことになる。だれが悪いのかといえば、 中庸を得ない可愛がりかたをした買い主の不明にすべての因がある。中庸を得ない思いやりは、すべてを不幸にするのである。
なにかの問題について考える場合、常により多くの意見や情報にふれるべく努力し、自分と違う考えに積極的に耳を傾けねばならない。そのうえで、どちらが中庸であるか、あるいは他により中庸というべきものがないのかを考えて、いまの時点での結論を出すべきなのである。