2008年2月11日月曜日

新・政党論

【 政党とは 】

広辞苑風の、一定の共通した原理・原則を持った政治
団体、というような定義では、もはや物の役にたたない
ことは明白である。

自由民主主義があたりまえになり、その意味ではすべての政党の原理・原則は同じものになってしまったからである。共産党や社民党でさえ、自分達こそが真の民主主義政党だと主張している。

ゆえに、現代社会に生きる我々は、政党というものに、新しい定義を与えてやる必要がある。それができないと、政党はその集団の利益の為だけに動くようになってしまう。現にどの政党も多かれ少なかれそういう傾向を持っている。

ハンナ・アーレントは、実に明快にこの問題を処断してくれた。すなわち、アメリカ・イギリス型の政党と、ドイツ・フランス型の政党とは、まったく別物であり、英米が二大政党制になるのも、仏独が多党制になるのも、政党というものの性格の違いによるものだ、というのだ。



【二大政党制をもたらす、英米の政党】

英米の二大政党に共通していることは、政党は全国民を代表するものであり、ゆえに政党は多様な意見を党内に抱え、かつ、そこからそのときどきに必要な政治的決断を行なうという認識である。

政党は、原則としてどんな意見にも耳を傾け、そこから政策を立案していく。国民は、自分の意見をより良く聞いてくれる政党を通じて国政に参加しているという実感を持つ。

政党は、いわば国家の中の国家として存在し、その時点でより優れた"国家"のほうが実際の国政を司るのである。



【多党制をもたらす、仏独の政党】

これに対して、仏独の政党は、全国民を代表するものではない。どの政党も、一部の国民をしか代表しない政党でしかない。この点、自民党以外の日本の政党も同じである。広辞苑風の政党解釈もまた、この種の「一部の国民を代表する政党」のことを意味している。

一部の国民をしか代表することができない政党であるので、その国政運営は非常に危ういものとなる。そこにあるのは、他の政党を抑圧して権力を貪るか、逆に 他の政党に遠慮しながら内外に弱腰ぶりを披露するかしかできない。55年体制は、それに近いものだったといえよう。あの体制のままでは、北朝鮮による拉致 問題も決して表に現れることはなかったであろう。

「一部を代表する政党」では、決して二大政党制は生まれてこない。独仏型の、広辞苑流の政党感からは、決して国政を担当できる政党は現れない。

比例代表制を溺愛し、死票が出ないことを美徳だとする考え方は、まさに部分の代表を贔屓するものである。ゆえに、ナチスに議席を与え、2005年の選挙では、掲示被告人の鈴木某氏とその相方の女性に議席を与えた。


【政党の新たな定義】

政党とは、様々の意見を表明し、それを討議し、政策を決定する為の装置である。

そのために、国家が保証する以上の言論の自由を党内に持ち、討論の場を確保し、さらに、時を逃さずに決定する機構をもっていなければならない。これを政党内民主主義という。

政党外の言論は、ときに社会的に圧殺されることがある。政党は、そのような「空気」からも発言者を守らねばならない。また、決定ができなければ、それは政 党とは言えないし、そもそも国家を運営することができない。学者や評論家と政治家の違いは、まさに決定するかせぬか、にある。決定をできない政治は、まさ に衆愚政治というしかないのだ。


【政党内民主主義の確立を】

民主党は、先の選挙のマニフェストのなかで、国民の望む政治を目指すとか言っていたようだが、国民の望みをどうやって知るというのだろうか。国民の名を借りた、独善主義ではないのだろうか。

真に国民の意志をしろうと思うのであれば、そのための装置を持たねばならない。民主党が非難する「自民党の陳情政治」だとて、一種の「国民の声を聞く装置」である。

国民の声を聞く装置、それは実は政党そのものなのである。民主党が主催して国民の声を聞く掲示板を作ればいいのだ。それも、民主党に対する批判を寄せてくれるようにお願いをする。そうすれば、おのずと国民の声が聞こえてくるだろう。

斉の威王は自分を批判するものに褒美を与えた。早坂秘書は角栄が怒りだすような情報だけを選んで報告した。良薬は口に苦く、諫言は耳に痛し。だからこそ必要なのだ。