2008年2月8日金曜日

言論の自由に三段階あり

【言論の自由に三段階あり】


言論の自由には、三つの段階がある。国により人によ
り、その到達している段階は決して同じではない。

ある国における言論の自由と、その隣国における言論
の自由が、同じものを意味するとは限らない。


【第一の段階】

言論の自由の第一段階は、自分の意見を述べることの
みを言論の自由だと思っている段階である。この段階
においては、自分の意見を他人に聞かせ、自分に相
手を従わせることには熱心であるが、相手の意見を聞
くということには関心が薄い。

否、自説を述べることだけが言論の自由であって、他
人の意見が弾圧されようとも知ったことではないと思っ
ているのがこの段階の人であり、国である。


【第二の段階】

第二段階においては、もう少しマシになる。

自分の意見と対立する意見の持ち主であっても、彼の
「言論の自由」が脅かされそうになった場合には、言論
の自由を守る為にともに戦うという認識を共有している
状態、これが第二段階である。

第一段階においては、自分と対立する相手が国家権
力によって弾圧された場合、それをむしろ歓迎するこ
とになる。

例えば、韓国において「親日派」の論客が権力によっ
て排除された場合、反日派はこれを歓迎することは
あっても、共に力を合わせて権力の横暴と闘おうとは
思わない。

韓国人の言論の自由に対する理解は、第一段階に留
まっているということである。同じことは、ほとんどすべ
ての非先進国についても言えることだろう。

敵対する相手の権利の為に死のう、というような人間は、
これらの国には、ほとんどいない。

むしろ、敵対者を倒す為ならば、権力と組んで、敵の
言論の自由を奪おう、と考える者がほとんどであろう。

自分と対立する者の言論の自由を守ることによっての
み、権力者が行なう洗脳に対抗し得るのだ、ということ
を理解できないからである。

もしも、自分にとって不快な見解を示す者がいなかっ
たならば、自分が政府に洗脳されているかどうかを検
証する術はない。

政府は常に耳に甘い言葉を以て国民を誘導しようと
するものだからである。



【第三の段階】


第三の段階においては、単に相手の言論の自由の権
利を守るだけではなく、自分から、敵対する相手や間
違っていると思える相手の意見を積極的に知ろうとい
う態度を取らねばならない。

第二段階まで来れば、なるほどすべての人は自分の
意見を述べる機会を得ることができるようにはなるが、
意見を発表できるからといって、その意見が大勢に伝
わるとは限らない。

真理を語っていても、詭弁に敗れるかもしれない。

経済力やメディアの力を持つ者の意見は広く世に知
られるが、そうでない人間の声は、僅かな人々にしか
伝わらない。

また、偏見や差別感情もまた、意見の伝達を阻害する。

例えば、欧米において、日本人の意見や日本に対
する情報の、恐るべき無知と無理解をみよ。

言論の自由はあるけれども、それによって相手(ここ
では日本)の意見を知ることができるようになるとは限
らないということなのだ。

 そもそも、言論の自由とは、自分と違った意見を知
ることによって自分の思考が健全であるかどうかを点
検し、心の自由と正義を保全する為のものである。

ならば、相手の「声」が小さいから聞こえない、などと
いう言い訳は通用しない。

相手の声がいかに小さくとも、あるいは無言であった
としても、相手の意見をこちらから積極的に聞き出さ
ねばならないということである。なんのことはない。

いわゆる「おもいやり」というものがこれである。

欧米流の言論の自由は、非欧米先進国の「我論の
自由」に比べればはるかにマシではあるが、言論の
自由として完成されたものではない。

第三段階の言論の自由、すなわち、「敵対する相手
の意見を聞く義務」を認め、そのように努力して初め
て言論の自由は完成するのである。


【日本の場合】


日本人は、最初から第三段階をもって言論の自由
だと思ってきたようだ。

江戸以前からの儒学の教養と明治以後に入ってき
た自由論とが融合すれば、こうなることは当然で
あった。

それでは、日本人は一番優れているのか?

そうではない。第一段階をすっ飛ばして第三段階に
至った日本人は、途上国の人間と論戦しても勝ち目
はないだろう。

欧米かぶれの日本人は、欧米の留まっている第二
段階では言論の自由は未完成なのだということを理
解できないがゆえに、日本の意見や情報が欧米に
伝わらない理由をも理解することができない。

第二段階の世界においては、自由はあるが、成果は
不平等な自由競争の中で闘い取らねば決して獲るこ
とはできないのだ、ということが理解できないのである。

途上国に対しては、最低限度、第二段階に進まなけ
れば、自由も民主主義も不可能なのだということを説
明し、欧米に対しては、第二段階の自由の中で日本
の意見や情報が影響力を持つようにするべく広報活
動を積極化するとともに、欧米もまた第二段階を卒業
して第三段階に進まなければならないということを説
得していかねばならない。

一方、日本人自身も、第一段階の弁論術と、第二段
階で闘い抜く闘争心を身につけねばならない。

もっとも、皆が皆、第三段階に至れば、そんなものは
必要ないのであるけれども。