政治と宗教の分離
政教分離とは、どこかの神社に政治家が参拝すべきかすべきでないか、などという瑣末な小事をいうのではない。宗教や良心といった内面的正義と、政治上の法的外形的正義との区別をいうのである。
この区別ができてはじめて、民主主義も近代国家も成立する。もしも、この区別なしに、内面の正義を外形たる政治に反映することを許せば、テロリストが跋扈することになる。まさに、イラクの今の姿がそれである。
内面の正義と外形の正義を区別するということは、たとえ政治の表舞台で敗北しても、自分達の主張の正しさは損なわれないということである。たまたま、力が足らずに否決されただけなのだ、次で勝てばいいのだ、と思えるということである。
さて、「女性は生む機械」発言と、その発言者に対する辞任要求についてであるが...
もしも、彼が今もってあの発言を撤回せず、謝罪もしていないというのであれば、これは彼の政治家としての外形的正義の主張なのであるから、それに異を唱える政治勢力は、自らの外形的正義を主張して、彼を政治的に攻撃してもよい。辞任でも切腹でも求めればよい。
しかしはがら、現実には彼は、とっくに謝罪もし、発言の撤回もしているのである。つまり、すでに外形的正義において、彼は敗北を認めているのだ。外形的正義における決着は、すでについたと言わねばならない。
いや、ああいう発言をするようなヤツとは席を同じくしたくない、というのであろうか。なるほど、フロイト的精神分析論によればそれもよかろう。しかし、それはあくまでも内面の問題であるとして切り離さなければ近代政治はなりたたない。
内面の問題を取り上げるという手段を認めてしまうと、どんな無茶な要求でも可能になってしまうからである。