2008年2月5日火曜日

近代国家と民主主義



近代国家と民主主義


「正しい」とはなにか?

近代国家の一つの大きな特徴は、中性国家たることにある。

引用:現代政治の思想と行動  丸山真男 著
                    未来社 増補版 P13/7-9

それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的な立場を
とり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例え
ば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かか
る内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置
いているのである。

引用終わり

さて、あるひとが、自分の考えている政策を正しいと信じることは、
ある真理や道徳を正しいと信じることと、どれほどの違いがあるだ
ろうか。

いかに科学的根拠を並べ立てたところで、その政策が実際の場
において検証されることがないかぎり、それは真理や道徳と同じく、
内容的価値の部類に属するものでしかないのである。

そして、近代国家は、その主権の基礎をかかる内容的価値のう
えには置かないものであり、純粋に形式的なるものの上に置い
ているのである。

このように見てくると、大衆の能力云々を直接民主制導入のため
のネックとして考えること自体がナンセンスであることがわかるだろ
う。

審議の内容それ自体はどうでもいいことなのである。極論すれば、
いやしなくとも、チラとテレビでみて裁決に参入するというだけの
直接参加でも構わないのである。

なにが正しいのかは、誰にもわからないのだから。

例えば「音速を超える飛行機は作れない」というような命題が、つ
い数十年前までは、科学的常識として正しいとされていた。科学
においてさえこのようなありさまである。ましてや社会関係の命題
においておや。

いかに俊才・英才が審議を尽くしたところで、正しい答えなどは
見つかるものではない。だが、我々は決断をしなければならない。
だからこそ政治が必要になる。逆に、決断よりも真理の追究を優
先するならば、その人は学者であって政治家ではない。

プラトンの生きた時代の民主主義というものは、このような近代社
会以降のそれとは別物である。彼らは、あくまでもアテネ的正義
の中に住んでいた。このようにひとつの価値感のなかに安住する
ことができるのであれば、民主主義はあまりよいものとはいえまい。

全員がアテネ的正義を高いレベルで保持していることが前提とな
るからであり、もっとも優れた頭脳であるプラトンからすれば、自分
よりレベルの低い大衆が価値あるものをぶちこわしにする、との反
感を持つことはむしろ自然である。

だが、現代においては、このようなひとつの価値観に社会正義を
求めることは不可能である。我々は、他の価値観を持った世界と
付き合わねばならないし、日々発達し開発される工業技術と新規
開拓産業は、否応なく我々に価値観の変遷を迫るからである。

西洋では「神は人間を飛ぶようには造らなかった」といって飛行
機を否定する宗教があったそうな。これにたいして反論するもの
は、「じゃあ、神は人間をあんなにも速く走るようには造らなかった
のに、我々は汽車にのって速く走るじゃないか、これもいかんは
ずだ」といったそうな。

★★★

「正しいもの」はどこにもない。では何を基準として政治はなされ
るべきであるのか。

ひとつは、国民の命を基準にとる、直接民主の考え方であり、も
うひとつは、動物的繁殖本能を基とする弱肉強食の考え方である。

前者は、政治の責任は、結局は国民がその責めを負うのである
から、彼らが自ら判断することを絶対としなければならないという
考えかたである。

例えば、私がなんらかの政策を国民に提示して、それが否決され
たとしよう。私はその提案によって明らかによい社会を作ることが
できると確信しているのであるが、国民多数がそれを否決した以
上はどうしようもない。

他日あるを期して再度啓蒙につとめるのみである。なぜならば、
私の提案が図にあたって利益を得るのも、予期に反して失敗し
損害を受けるのも、国民大衆だからである。

神ならぬ私は、自分が正しいと思っているからといって、かよわ
き羊達を導くわけにはいかないのである。

後者は、種・民族・国家の発展・興隆という自然界の摂理を判断
の基準にすることを意味する。種の保存、自然淘汰、弱い個の
犠牲による種族の生き残り、優良遺伝子の確保と彼らによる指導
・指揮による集団の繁栄。これらは、動物界においてはごく自然
に存在する方式である。

この考えに従えば、強いものが「かよわき羊達」を強引に引っ張
っていけばいいことになる。強い者が、集団を引っ張る。これは、
有史以来、ごく自然な統治形態であるといえよう。

この方式の問題は、複雑化した現代社会において、なにをもっ
て強いといえるのか、それが明白ではないということである。


このふたつの考え方は、しかし、必ずしも反駁するものではない。

真に強者たらんとすれば、大衆を味方にせねばならないし、大
衆と一口にいっても、実際に影響力のあるのは彼らのなかの強
い大衆だけだからだ。