2008年2月28日木曜日

政教分離を理解できない政治家たち

政治と宗教の分離

政教分離とは、どこかの神社に政治家が参拝すべきかすべきでないか、などという瑣末な小事をいうのではない。宗教や良心といった内面的正義と、政治上の法的外形的正義との区別をいうのである。

この区別ができてはじめて、民主主義も近代国家も成立する。もしも、この区別なしに、内面の正義を外形たる政治に反映することを許せば、テロリストが跋扈することになる。まさに、イラクの今の姿がそれである。

内面の正義と外形の正義を区別するということは、たとえ政治の表舞台で敗北しても、自分達の主張の正しさは損なわれないということである。たまたま、力が足らずに否決されただけなのだ、次で勝てばいいのだ、と思えるということである。

さて、「女性は生む機械」発言と、その発言者に対する辞任要求についてであるが...

もしも、彼が今もってあの発言を撤回せず、謝罪もしていないというのであれば、これは彼の政治家としての外形的正義の主張なのであるから、それに異を唱える政治勢力は、自らの外形的正義を主張して、彼を政治的に攻撃してもよい。辞任でも切腹でも求めればよい。

しかしはがら、現実には彼は、とっくに謝罪もし、発言の撤回もしているのである。つまり、すでに外形的正義において、彼は敗北を認めているのだ。外形的正義における決着は、すでについたと言わねばならない。

いや、ああいう発言をするようなヤツとは席を同じくしたくない、というのであろうか。なるほど、フロイト的精神分析論によればそれもよかろう。しかし、それはあくまでも内面の問題であるとして切り離さなければ近代政治はなりたたない。

内面の問題を取り上げるという手段を認めてしまうと、どんな無茶な要求でも可能になってしまうからである。

2008年2月16日土曜日

選挙 = 民主主義 ではない



選挙は民主主義の必要条件であるが、十分条件ではない。
選挙の結果、民主主義の政党が勝った場合のみ民主主義と言える。

民主主義を標榜する政党が本当に国民の支持を得ているのかを確認する為に選挙をすることが必要であり、民主主義国家であろうとすれば、選挙は必要である。

が、その結果、民主主義を標榜しない政党や、明らかに政党内部に民主主義が欠落している政党が政権を得る場合もある。そのような結果を民意と呼び、民主主義の結果だ、と叫ぶことが正しいのであろうか。

このような事態は、発展途上国や低開発国では頻繁にみられるものである。

民主化して選挙をしたら、あっというまに軍事独裁政権に変わってしまった、という例はいたるところにある。


【民主主義者が勝った場合のみ民主主義】

選挙それ事態は、民主主義ではない。しかし、選挙を主張するのは民主主義者である。民主主義者以外の者が選挙を主張することは稀である。

このことが誤解を産んでいる。選挙をすれば民主主義であり、その結果生まれた政権は、民意を得ている民主主義の政権なのであると。

なるほど、民意は得ているのかもしれない。しかしそれは「民主主義を否定するという民意」に他ならない。民主主義の政党以外の政党に政権を任せれば、以後の民主的施策が行なわれることはないのだから。選挙それ自体、次回も行なわれるかどうか保証の限りではない。

民主主義者が勝利したときのみ、次回以降の選挙開催も保証される。民主主義者が敗北するということは、その国がいまだ民主主義を持ち得るほどの熟成を果たしていないという証拠である。

繰り返すが、民主主義の政党が選挙で勝った場合のみ、民主主義国と言えるのだ。

だから今、日本の政治は民主主義の危機に直面している。民主党の政党内民主主義は幼稚であるのに、参議院の議席数をネタに政権交代を叫んでいるがゆえに。

2008年2月12日火曜日

儒学の政治

治世の究極の目標は、「仁」である。

仁とは、正しいということである。だが、なにが正しいのか、神ならぬ人間には知り得ぬことである。

だが、だからこそ、より正しきものに一歩でも近づくべく努力をする。これが「道」である。柔道の道、剣道の道、華道の道、茶道の道、仏道の道、君子の道、これ皆、「正しきもの」へ近づく努力をいうのである。

ゆえに、孔子もいわく、明日に道を聞かば夕べに死すとも可なりと。仁に至る道を獲得できるのであれば、その日のうちに死んでも悔いはないと。

さて、仁が大事だということは分ったが、では具体的にどのようにしたら仁に近づくことができるのであろうか。

そのための道具が、「中庸」である。

中庸とは、偏らぬこと、最適であること、当たり前の正しさということ、である。

仁に適うべく正しいことを行なおうとしても、人間の心は不可避的に偏りを持つ。ゆえに、偏らぬように常に注意を払うことによって道から外れることを防ぐのである。

だが、偏らぬように注意していてもなお、知らず知らずのうちに考えが偏るのが人間というものである。ゆえに、それへの備えとして、「格物知至」(大学)がある。

「物格ってのち知至る」すなわち、十分な情報を得て、初めて知性が生まれ、正しい意見を持つことができるということである。

現代社会で言えば、これは「言論の自由」に相当する。言論の自由によって提供される様々な情報や知識を偏りなく学んでのち、はじめて中庸を得ることができるのである。

だが、言論の自由があってもなお、人間の心というものは偏見を捨てることができないものである。言論の自由が制限されている韓国や中国はいうまでもなく、自由な言論のある欧米においてさえ、無知から生じる偏見は無くならない。

それは、相手に対する「思いやり」が無いからである。相手がなぜ自分達と違った考えをするのかを思いやる姿勢が欠落していると、いくら多数の情報があっても、それを知ろうとはせず、結果、中庸を得ることはできないのである。

「言論の自由」と「思いやり」は、中庸を支える両足であり、どれかが欠けても、あるいは突出しても、中庸では無くなる。

たとえば、よく日本では「中国や韓国への思いやりが大事だ」という評論家センセイがいるけれども、それはあくまでも中庸を得る為の、あるいは中庸の範囲内 での思いやりでなければならない。中庸を外した思いやりは、思いやりではなく、単なる甘やかしであり、そのような行為は、相手も日本も、そして第三者をも 不幸にする結果しか生まない。

卑近な例でいえば、躾をせず、甘やかし放題で育った犬は、やがて隣人を噛み、保健所で処分され、買い主も傷心を負うことになる。だれが悪いのかといえば、 中庸を得ない可愛がりかたをした買い主の不明にすべての因がある。中庸を得ない思いやりは、すべてを不幸にするのである。

なにかの問題について考える場合、常により多くの意見や情報にふれるべく努力し、自分と違う考えに積極的に耳を傾けねばならない。そのうえで、どちらが中庸であるか、あるいは他により中庸というべきものがないのかを考えて、いまの時点での結論を出すべきなのである。

新 共産党宣言

新・共産主義宣言


「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことのできる社会、それが共産主義社会。

ただし、ここで言う「能力に応じて」は資本主義で言う「能力に応じて」とはいささか違う。資本主義において「能力に応じて働く」には、何者かに能力を認め てもらわねばならない。官僚は公務員上級試験に合格しなければならないし、歌手はプロデューサーに認めてもらわねばならない。魚屋さんもお客さんに認めて もらわねば早晩、店が潰れる。

だが、共産主義においては「できる」こと「やろうとすること」だけで「能力に応じて働く」ことだと認められる。言ってみれば、アマチュアでいいということだ。下手くそでも、マンガを描ける者は漫画家だというのが共産主義である。

我々は、すでにこのような社会を知っている。そう、このインターネットの社会、そこに偏在する多くの無料コンテンツがまさにそれだ。インターネット上で公 開されたアマチュアのマンガは、誰でも好きなだけ読むことができる。まさに、能力に応じて働き、必要に応じて取る、社会そのものである。

マンガだけではない。OSリナックスをはじめとする多数のプログラム、政府発表の統計・ニュース・掲示板やプログもそうだ。あらゆるお得情報や公開講座、その他、これからはさらに様々なものが現れるであろう。

インターネットこそは、すでに実現された共産社会そのものなのである。共産主義は破綻したのではなく、ようやく真の姿を現したのである。「真理は必ず再発見される」(JSミル)

そこで、インターネットの特性を調べることによって、共産主義社会が成立するにはなにが必要か、を逆に明示することができる。

インターネットの特性として、誰もが一定の技術さえあれば発表する機会を与えられているということ、そこに載せられたコンテンツはいくらでも複製生産が可能であるということ、かつ、その流通が完璧に近いということ、などである。

この条件を満たすものは、共産化できるが、そうでないものは共産化できない。国家や社会は生産できないし、流通も例えば人の移動ひとつとっても難しい。ゆえに、国家そのものを共産化するということは現状では不可能なのである。

逆に、共産化しやすいものとしては、ありとあらゆる情報財があげられるだろう。共産主義を標榜する団体は、まさにそのための活動をこそするべきであって、プロレタリアート独裁を目論むなどはムチャクチャな行為であると知れ。

共産主義を実現する原動力は、「生産力の飛躍的な増大」である。ところが、産業によって、対象によって、生産力の増大の仕方は異なる。情報財はいくらでも 増産できるが、不動産を増大させることは難しい。国家を生産することなどは、ドラえもんの道具でもなければ不可能である。共産主義化できるものとできない もの、できやすいものとできにくいものがある、ということをまず知らねばならない。

いま現在の時点で、ほぼ完全な形で共産主義化できるものは情報財だけである。ゆえに、共産主義を標榜する団体は、情報財の創造にその全力を注ぎ、できたコ ンテンツを無償で万民に提供する(インターネットで無償配布すればいいだけだ)ことに傾注すればいいだけのことなのだ。日本共産党はなぜこれをしないの か?

共産党はいまや取るに足りぬほど小さな政党になってしまったが、それでも個人などよりは、はるかに強力な力をもっている。共産党が全力を挙げて「ネット無 料講座」を開講すれば、そうとうに大きな影響力を持つことができるだろう。司法書士受験講座とか、大学受験講座、基礎英語講座、上級公務員受験講座なんて のもいいかもしれない。政権などに固執しなくても、これだけのことは簡単にできる。

共産主義者は、国家権力の誘惑を排除せよ。権力を得ようなどと思うな。ただ共産主義化できる事物を増やし、国民に奉仕することだけを考えよ。革命など無用。万民に情報財を与えることこそが我等の使命ぞ。

これをもって、ここに新・共産主義宣言とする。

2008年2月11日月曜日

新・政党論

【 政党とは 】

広辞苑風の、一定の共通した原理・原則を持った政治
団体、というような定義では、もはや物の役にたたない
ことは明白である。

自由民主主義があたりまえになり、その意味ではすべての政党の原理・原則は同じものになってしまったからである。共産党や社民党でさえ、自分達こそが真の民主主義政党だと主張している。

ゆえに、現代社会に生きる我々は、政党というものに、新しい定義を与えてやる必要がある。それができないと、政党はその集団の利益の為だけに動くようになってしまう。現にどの政党も多かれ少なかれそういう傾向を持っている。

ハンナ・アーレントは、実に明快にこの問題を処断してくれた。すなわち、アメリカ・イギリス型の政党と、ドイツ・フランス型の政党とは、まったく別物であり、英米が二大政党制になるのも、仏独が多党制になるのも、政党というものの性格の違いによるものだ、というのだ。



【二大政党制をもたらす、英米の政党】

英米の二大政党に共通していることは、政党は全国民を代表するものであり、ゆえに政党は多様な意見を党内に抱え、かつ、そこからそのときどきに必要な政治的決断を行なうという認識である。

政党は、原則としてどんな意見にも耳を傾け、そこから政策を立案していく。国民は、自分の意見をより良く聞いてくれる政党を通じて国政に参加しているという実感を持つ。

政党は、いわば国家の中の国家として存在し、その時点でより優れた"国家"のほうが実際の国政を司るのである。



【多党制をもたらす、仏独の政党】

これに対して、仏独の政党は、全国民を代表するものではない。どの政党も、一部の国民をしか代表しない政党でしかない。この点、自民党以外の日本の政党も同じである。広辞苑風の政党解釈もまた、この種の「一部の国民を代表する政党」のことを意味している。

一部の国民をしか代表することができない政党であるので、その国政運営は非常に危ういものとなる。そこにあるのは、他の政党を抑圧して権力を貪るか、逆に 他の政党に遠慮しながら内外に弱腰ぶりを披露するかしかできない。55年体制は、それに近いものだったといえよう。あの体制のままでは、北朝鮮による拉致 問題も決して表に現れることはなかったであろう。

「一部を代表する政党」では、決して二大政党制は生まれてこない。独仏型の、広辞苑流の政党感からは、決して国政を担当できる政党は現れない。

比例代表制を溺愛し、死票が出ないことを美徳だとする考え方は、まさに部分の代表を贔屓するものである。ゆえに、ナチスに議席を与え、2005年の選挙では、掲示被告人の鈴木某氏とその相方の女性に議席を与えた。


【政党の新たな定義】

政党とは、様々の意見を表明し、それを討議し、政策を決定する為の装置である。

そのために、国家が保証する以上の言論の自由を党内に持ち、討論の場を確保し、さらに、時を逃さずに決定する機構をもっていなければならない。これを政党内民主主義という。

政党外の言論は、ときに社会的に圧殺されることがある。政党は、そのような「空気」からも発言者を守らねばならない。また、決定ができなければ、それは政 党とは言えないし、そもそも国家を運営することができない。学者や評論家と政治家の違いは、まさに決定するかせぬか、にある。決定をできない政治は、まさ に衆愚政治というしかないのだ。


【政党内民主主義の確立を】

民主党は、先の選挙のマニフェストのなかで、国民の望む政治を目指すとか言っていたようだが、国民の望みをどうやって知るというのだろうか。国民の名を借りた、独善主義ではないのだろうか。

真に国民の意志をしろうと思うのであれば、そのための装置を持たねばならない。民主党が非難する「自民党の陳情政治」だとて、一種の「国民の声を聞く装置」である。

国民の声を聞く装置、それは実は政党そのものなのである。民主党が主催して国民の声を聞く掲示板を作ればいいのだ。それも、民主党に対する批判を寄せてくれるようにお願いをする。そうすれば、おのずと国民の声が聞こえてくるだろう。

斉の威王は自分を批判するものに褒美を与えた。早坂秘書は角栄が怒りだすような情報だけを選んで報告した。良薬は口に苦く、諫言は耳に痛し。だからこそ必要なのだ。

2008年2月8日金曜日

言論の自由に三段階あり

【言論の自由に三段階あり】


言論の自由には、三つの段階がある。国により人によ
り、その到達している段階は決して同じではない。

ある国における言論の自由と、その隣国における言論
の自由が、同じものを意味するとは限らない。


【第一の段階】

言論の自由の第一段階は、自分の意見を述べることの
みを言論の自由だと思っている段階である。この段階
においては、自分の意見を他人に聞かせ、自分に相
手を従わせることには熱心であるが、相手の意見を聞
くということには関心が薄い。

否、自説を述べることだけが言論の自由であって、他
人の意見が弾圧されようとも知ったことではないと思っ
ているのがこの段階の人であり、国である。


【第二の段階】

第二段階においては、もう少しマシになる。

自分の意見と対立する意見の持ち主であっても、彼の
「言論の自由」が脅かされそうになった場合には、言論
の自由を守る為にともに戦うという認識を共有している
状態、これが第二段階である。

第一段階においては、自分と対立する相手が国家権
力によって弾圧された場合、それをむしろ歓迎するこ
とになる。

例えば、韓国において「親日派」の論客が権力によっ
て排除された場合、反日派はこれを歓迎することは
あっても、共に力を合わせて権力の横暴と闘おうとは
思わない。

韓国人の言論の自由に対する理解は、第一段階に留
まっているということである。同じことは、ほとんどすべ
ての非先進国についても言えることだろう。

敵対する相手の権利の為に死のう、というような人間は、
これらの国には、ほとんどいない。

むしろ、敵対者を倒す為ならば、権力と組んで、敵の
言論の自由を奪おう、と考える者がほとんどであろう。

自分と対立する者の言論の自由を守ることによっての
み、権力者が行なう洗脳に対抗し得るのだ、ということ
を理解できないからである。

もしも、自分にとって不快な見解を示す者がいなかっ
たならば、自分が政府に洗脳されているかどうかを検
証する術はない。

政府は常に耳に甘い言葉を以て国民を誘導しようと
するものだからである。



【第三の段階】


第三の段階においては、単に相手の言論の自由の権
利を守るだけではなく、自分から、敵対する相手や間
違っていると思える相手の意見を積極的に知ろうとい
う態度を取らねばならない。

第二段階まで来れば、なるほどすべての人は自分の
意見を述べる機会を得ることができるようにはなるが、
意見を発表できるからといって、その意見が大勢に伝
わるとは限らない。

真理を語っていても、詭弁に敗れるかもしれない。

経済力やメディアの力を持つ者の意見は広く世に知
られるが、そうでない人間の声は、僅かな人々にしか
伝わらない。

また、偏見や差別感情もまた、意見の伝達を阻害する。

例えば、欧米において、日本人の意見や日本に対
する情報の、恐るべき無知と無理解をみよ。

言論の自由はあるけれども、それによって相手(ここ
では日本)の意見を知ることができるようになるとは限
らないということなのだ。

 そもそも、言論の自由とは、自分と違った意見を知
ることによって自分の思考が健全であるかどうかを点
検し、心の自由と正義を保全する為のものである。

ならば、相手の「声」が小さいから聞こえない、などと
いう言い訳は通用しない。

相手の声がいかに小さくとも、あるいは無言であった
としても、相手の意見をこちらから積極的に聞き出さ
ねばならないということである。なんのことはない。

いわゆる「おもいやり」というものがこれである。

欧米流の言論の自由は、非欧米先進国の「我論の
自由」に比べればはるかにマシではあるが、言論の
自由として完成されたものではない。

第三段階の言論の自由、すなわち、「敵対する相手
の意見を聞く義務」を認め、そのように努力して初め
て言論の自由は完成するのである。


【日本の場合】


日本人は、最初から第三段階をもって言論の自由
だと思ってきたようだ。

江戸以前からの儒学の教養と明治以後に入ってき
た自由論とが融合すれば、こうなることは当然で
あった。

それでは、日本人は一番優れているのか?

そうではない。第一段階をすっ飛ばして第三段階に
至った日本人は、途上国の人間と論戦しても勝ち目
はないだろう。

欧米かぶれの日本人は、欧米の留まっている第二
段階では言論の自由は未完成なのだということを理
解できないがゆえに、日本の意見や情報が欧米に
伝わらない理由をも理解することができない。

第二段階の世界においては、自由はあるが、成果は
不平等な自由競争の中で闘い取らねば決して獲るこ
とはできないのだ、ということが理解できないのである。

途上国に対しては、最低限度、第二段階に進まなけ
れば、自由も民主主義も不可能なのだということを説
明し、欧米に対しては、第二段階の自由の中で日本
の意見や情報が影響力を持つようにするべく広報活
動を積極化するとともに、欧米もまた第二段階を卒業
して第三段階に進まなければならないということを説
得していかねばならない。

一方、日本人自身も、第一段階の弁論術と、第二段
階で闘い抜く闘争心を身につけねばならない。

もっとも、皆が皆、第三段階に至れば、そんなものは
必要ないのであるけれども。

2008年2月5日火曜日

近代国家は中性国家


中性国家の成立条件


中性国家の政治的決定の方法が内面的価値から切り離された
ものであるとするならば、政治上の決定を行う場合にも内面的
価値からの制約はあってはならないことになる。

例えば、多数決という無機的決定方式について、他人の意見
を尊重せねばならないだとか、よく問題を吟味しなければなら
ないだとかの内面的価値を押し付けることはしてはならないの
である。

なぜならこのこと自体が、あるひとつの価値観を他の価値観を
持った人間に強制することを意味するが故に、そのような内面
的価値から距離をおこうとする中性国家の本質と矛盾する行
為だからである。

中性国家の決定方法の条件は、このような道徳的価値観から
ではなく、純粋に物理的・形式的な必要を持ったものとして規
定されねばならない。



連帯ということ

様々な内面的価値を持った人間が、各々のいだく正義の違い
を乗り越えて中性国家として統一の決定を持つことができる為
には、国家を構成するこれらの人々が、国家としての法的な決
定に一応の服従を誓うことができるという認識をもっていなけれ
ばならない。

これを連帯といおう。

ようするに中性国家のなす法的決定に対して最低限度の信頼
と忠誠をすべての国民が共有していること。これが中性国家成
立の条件なのである。

このような連帯なくして中性国家は有り得ない。

では、いかにしてこのような連帯は生まれるのか。ここに至って
はじめて先に否定した「他人の意見の尊重」などのアイテムが
必要になってくる。

自分の意見を聞いてくれないような社会に誰が連帯を持ち得
ようか。自分の民族に対する差別を放置しているような国家に
誰が連帯を感じるであろうか。まともな吟味を行おうとせず強行
採決をしようとする国会に誰が連帯を認め得ようか。

これらを満足させる連帯の為のアイテムがあって初めて中性国
家は成立する。これらのアイテムは、多数決の道徳的前提条件
ではなくて、多数決が行い得るための物理的必要条件なので
ある。

この条件の一応のクリアなしには多数決は不可能であるし、強
行しても意味がない。反対者は誰も従わないであろうからだ。


ヨーロッパの道徳的優越

ヨーロッパ近代国家が中性国家化したのは、宗教戦争の結果
としての妥協であるのだそうな。しかしながら、一旦中性国家と
化した以上は、上記のような理由によって連帯保持のための
”物理的条件としての倫理”が発生するようになる。

ここに言論の自由だの少数意見の尊重だの他の意見に対する
寛容だのの精神が生まれ、ヨーロッパの道徳的優越という錯覚
を我々に与えたのであろうと思われる。

だが、ここに見てきたように、これらのことは近代国家の必要条
件なのであって、道徳的な価値とは無縁のものである。否、道
徳的価値から離れることによって初めて真に獲得することので
きる物理的条件なのである。

近代国家と民主主義



近代国家と民主主義


「正しい」とはなにか?

近代国家の一つの大きな特徴は、中性国家たることにある。

引用:現代政治の思想と行動  丸山真男 著
                    未来社 増補版 P13/7-9

それは真理とか道徳とかの内容的価値に関して中立的な立場を
とり、そうした価値の選択と判断はもっぱら他の社会的集団(例え
ば教会)乃至は個人の良心に委ね、国家主権の基礎をば、かか
る内容的価値から捨象された純粋に形式的な法機構の上に置
いているのである。

引用終わり

さて、あるひとが、自分の考えている政策を正しいと信じることは、
ある真理や道徳を正しいと信じることと、どれほどの違いがあるだ
ろうか。

いかに科学的根拠を並べ立てたところで、その政策が実際の場
において検証されることがないかぎり、それは真理や道徳と同じく、
内容的価値の部類に属するものでしかないのである。

そして、近代国家は、その主権の基礎をかかる内容的価値のう
えには置かないものであり、純粋に形式的なるものの上に置い
ているのである。

このように見てくると、大衆の能力云々を直接民主制導入のため
のネックとして考えること自体がナンセンスであることがわかるだろ
う。

審議の内容それ自体はどうでもいいことなのである。極論すれば、
いやしなくとも、チラとテレビでみて裁決に参入するというだけの
直接参加でも構わないのである。

なにが正しいのかは、誰にもわからないのだから。

例えば「音速を超える飛行機は作れない」というような命題が、つ
い数十年前までは、科学的常識として正しいとされていた。科学
においてさえこのようなありさまである。ましてや社会関係の命題
においておや。

いかに俊才・英才が審議を尽くしたところで、正しい答えなどは
見つかるものではない。だが、我々は決断をしなければならない。
だからこそ政治が必要になる。逆に、決断よりも真理の追究を優
先するならば、その人は学者であって政治家ではない。

プラトンの生きた時代の民主主義というものは、このような近代社
会以降のそれとは別物である。彼らは、あくまでもアテネ的正義
の中に住んでいた。このようにひとつの価値感のなかに安住する
ことができるのであれば、民主主義はあまりよいものとはいえまい。

全員がアテネ的正義を高いレベルで保持していることが前提とな
るからであり、もっとも優れた頭脳であるプラトンからすれば、自分
よりレベルの低い大衆が価値あるものをぶちこわしにする、との反
感を持つことはむしろ自然である。

だが、現代においては、このようなひとつの価値観に社会正義を
求めることは不可能である。我々は、他の価値観を持った世界と
付き合わねばならないし、日々発達し開発される工業技術と新規
開拓産業は、否応なく我々に価値観の変遷を迫るからである。

西洋では「神は人間を飛ぶようには造らなかった」といって飛行
機を否定する宗教があったそうな。これにたいして反論するもの
は、「じゃあ、神は人間をあんなにも速く走るようには造らなかった
のに、我々は汽車にのって速く走るじゃないか、これもいかんは
ずだ」といったそうな。

★★★

「正しいもの」はどこにもない。では何を基準として政治はなされ
るべきであるのか。

ひとつは、国民の命を基準にとる、直接民主の考え方であり、も
うひとつは、動物的繁殖本能を基とする弱肉強食の考え方である。

前者は、政治の責任は、結局は国民がその責めを負うのである
から、彼らが自ら判断することを絶対としなければならないという
考えかたである。

例えば、私がなんらかの政策を国民に提示して、それが否決され
たとしよう。私はその提案によって明らかによい社会を作ることが
できると確信しているのであるが、国民多数がそれを否決した以
上はどうしようもない。

他日あるを期して再度啓蒙につとめるのみである。なぜならば、
私の提案が図にあたって利益を得るのも、予期に反して失敗し
損害を受けるのも、国民大衆だからである。

神ならぬ私は、自分が正しいと思っているからといって、かよわ
き羊達を導くわけにはいかないのである。

後者は、種・民族・国家の発展・興隆という自然界の摂理を判断
の基準にすることを意味する。種の保存、自然淘汰、弱い個の
犠牲による種族の生き残り、優良遺伝子の確保と彼らによる指導
・指揮による集団の繁栄。これらは、動物界においてはごく自然
に存在する方式である。

この考えに従えば、強いものが「かよわき羊達」を強引に引っ張
っていけばいいことになる。強い者が、集団を引っ張る。これは、
有史以来、ごく自然な統治形態であるといえよう。

この方式の問題は、複雑化した現代社会において、なにをもっ
て強いといえるのか、それが明白ではないということである。


このふたつの考え方は、しかし、必ずしも反駁するものではない。

真に強者たらんとすれば、大衆を味方にせねばならないし、大
衆と一口にいっても、実際に影響力のあるのは彼らのなかの強
い大衆だけだからだ。

国家・政党・議会



国家・政党・議会

★ 強い国家とは何か


独裁にせよ民主制にせよ、「強い国家」「優れた国家」とは
どのようなものをいうのであろうか。ただし、例えばある戦
争に勝つといった短期の目的を果たすという意味ではな
く、何十年の長期にわたる時間単位において。

過去の為政者の例からみれば、結局は新しい技術や方
策を発見し採用した国家が繁栄するようである。

ところで、新しい事を言う者を発見するということは、すな
わち、今までかえりみられることのなかった少数者の意見
を採り上げるということである。

少数者や弱者が持っている意見を聞き、その中に未来の
国家の方針を発見すること。これによく努める国家こそ強
き国家であるといえる。

強者や多数者の意見は努力せずとも誰もが知りうる。故
に、そのなかには新しいものはない。少数者や弱者にこ
そ新しきものが潜在している。それじゃあ、現代の評論家
などはなんなんだ、と思われるかも知れないが、彼らもま
た少数者・弱者の類に属する。

少数派であるからこそ、そうではない多数大衆に対して
いうべき内容を持つのであって、そうでなければ大衆の
ほうで彼らを見捨てるだろう。ごく一部の、陳腐な論調を
繰り返すことが職業となってしまった宣伝マンのような人
を除いて。

少数意見が採用される可能性のあること、これこそが強
い国家の根本的条件である。これは民主主義だけの話
ではない。独裁制においても、封建制においてもいえる
ことである。(信長・秀吉をみよ)


★ 議会における少数意見の尊重

上のことを現代の議会政治にあてはめれぼどういうこと
になるか。議会において決定権を持つ「殿様」は、議会
議員の多数決である。

しからば、議会政治においては、「少数意見が(多くの
議員に認められて)、多数を制する可能性」の存在こそ
が最も重要なことであるといえる。

民主制における少数意見の尊重とは、単に少数者が
意見を述べる機会があるというだけでは不十分であり、
発案者以外の大衆がそれをよきものと認め賛意を
表する場がなければならない。

多数決の存在意義はここにある。多数決なしには、少
数意見が多数に支持されたことを現しようがないから
である。

少数意見は少数意見のまま採用されることは有り得
ない。多数者に認められて初めて採用されるのである。
だから採用された少数意見は正しくは「元・少数意見」
なのである。(少数のまま少数意見が採用されるのは
専制政治である)

この意味において、少数意見の尊重と多数決は矛盾
するものではなく、互いに必要としあう関係なのである。

新しきものを得るために多数決は少数意見に耳を傾
けることを必要とし、新しきものを採用させるために少
数意見は多数決を必要とする。


★ 議員の自由と政党


前段の少数意見の尊重を実現するためには、議員
個人が自由に考え行動できなければならない。そう
でなければ、少数派の意見は絶対に多数派議員の
支持を得ることはないであろう。

ここから党議拘束に対する反対論が生まれる。

各議員個人を政党の拘束から開放し、自由に討議
させるべきだということになる。出来うれば、政党自
体をも解散・禁止し、ちょうど小学校のクラス会のよ
うに、議員個人の頭と良識で議会を動かすべきで
ある、となる。

しかし、私の見るところ、これは無理スジである。

なぜならば、個人の集まりよりも、徒党を組んだ集
団のほうがはるかに強いからである。また、各議員
は、個人により重視する政策が違う。自分の軽視す
る議題については議決権を誰かに融通し、引き換
えに自分の重視する裁決に協力してもらう、という
ような取り引きが起こらざるを得ない。

党議拘束の廃止は、よりストレートな野合・利権争い
を生むだけなのである。

ではどうすべきか。

私の考えでは、結局のところ、そういう行為をしない
という盟約を結んだ者達の集団、という意味での政
党をたてるより他ないと思える。

武士は食わねど高楊枝、徒党もくまぬ、取り引きも
せぬ。もし我をしてその疑いあらば何人にてもかま
わず我を告発せよ、必ず身の潔白を証明してみせ
よう。

万一、潔白を証明できぬときには、罪が立証されず
とも、腹かっさばいて異心なきことを示さん。

....というような盟約のもとに政党を作り、その内部に
おいて「自由な討議」をする。政党とはかくあらねば
ならない。かかる稚気を持った人間でなければ政治
を面白くすることはできない。

それならば、とおっしゃるかもしれぬ。 国会議員全
員に盟約をたてさせよと。

だがそれは無理である。物理的に。

なぜならば、全員が盟約した場合、違反者の処分は
どうすればいいのだろうか、という問題が出てくるから
である。まさか議席剥奪というわけにはいくまい。

また、逆に、違反とする判定自体が間違いである可
能性もゼロではない。なのにほとんど議会から締め
出すような罰を加える権限があるのか、という問題も
ある。

それこそ少数意見の締め出しではないか。

一政党の盟約であれば、違反者を除籍するという
処分が成立する。処分されたほうも、比例代表制
の議員を除けば国会議員の身分に変わりはなく
活動を継続できる。

自分を除籍した政党のほうが間違っていると信じる
ならば、自ら新しい盟約政党を旗揚げすることもで
きよう。

このように、盟約政党はこの政党に属さない議員や、
他の政党を必要とする。

そして盟約政党同士の選挙戦は、どちらの政党が
気高い盟約を守っているか、どちらがよりよい自由
な討議をその内部に持っているかできまる。

すなわち、政党内民主主義をどれだけ育てている
かで決まるのである。

政党というものは、かかる崇高な精神の盟約と、内
部の自由民主を約束するものでるが故に存在価
値がある。

しかして、我が国の政党やいかに?

所属議員に気高き精神ありや? 政党内部に民主
自由の気風ありや?


★ 民主主義のしぶとい強さ


強い国家とは、新しきものを採り入れることの出来
る国家であると述べてきた。そしてそれに最も適し
た政体こそが民主主義(そして資本主義)に他な
らない。

資本主義のほうは、また別の機会に述べることに
して、ここでは民主主義の強さについて述べる。

新しきものを採り入れる国家が強い国家だといって
も、採り入れた新しきものが必ずしも優れたもので
あるとは限らない。

とんでもない誤った選択をすることになる可能性も
おおいにある。

それは馬鹿殿様の思い付きでも、審議を重ねた
議会の決定にでも、共にあり得ることである。
誰がやっても間違いは必ずあるものだ。

そんな危険を避けて、伝統的な生活に甘んじてい
れば安泰かというと、これもまた必ずしもそうでは
ない。

動くも危険、動かざるも危険、絶対の安寧などどこに
もありはしない。

では人はどうすればいいのか?

正しき答えを予見することはできないが、起こった
事態に対して処置をすることならば可能である。

そのために、どこへボールが飛んできてもいいよう
に玉拾いを配置することは有効な防衛方法である。

議会において政敵と討論をすること、少数意見に
耳を傾けること、こうすることによって事態が思わぬ
方向へ進んだときに玉を拾える範囲が増える。

そういえば誰かがこういう事態を予見してたなぁ、
ということになる。

議会制度のもとでなくても、このような意見の収集
は可能ではある。しかし、その場合には往々にして
生死のやりとりに発展する恐れを含んでいる。

気に食わぬ意見をいう人物を殺害すること、こと
政治に関しては頻繁におこる。だがこれは国力の
消耗以外の何ものでもない。

気に食わぬ政敵も議会の中にプールしておく、
これによって国家の後衛は厚みを増し、強い国家
となることができる。

ここにこそ、民主主義の強さの根元がある。

ということは、たとえ民主主義を名乗っても、政敵
を次々葬り去るような議会は民主議会本来の強さ
を持ち得ないことになる。

フランス革命後の議会などはその例といえよう。
もしあんなに殺しあわなければナポレオンの出
る幕はなかったかもしれない。

つまりは、民主主義の強さは、「正しい判断が下
せる」というところにではなく、「間違えたときに修正
がしやすい」という点にある。

では、とりかえしのつかない大失敗をやったら?

心配御無用。 国民が存在する限りやりなおしは効く。

なんせ国民主権というぐらいで、国民あるところ
国家あり、議会あり、やりなおしあり。

では、国民が滅んだら?

国民が滅亡してしまえば、そもそも「とりかえし」を
つける必要がない。「とりかえ し」をつけようと
する
国家や国民自体が、死滅してもはや存在しない
のだから。