2008年2月5日火曜日

国家・政党・議会



国家・政党・議会

★ 強い国家とは何か


独裁にせよ民主制にせよ、「強い国家」「優れた国家」とは
どのようなものをいうのであろうか。ただし、例えばある戦
争に勝つといった短期の目的を果たすという意味ではな
く、何十年の長期にわたる時間単位において。

過去の為政者の例からみれば、結局は新しい技術や方
策を発見し採用した国家が繁栄するようである。

ところで、新しい事を言う者を発見するということは、すな
わち、今までかえりみられることのなかった少数者の意見
を採り上げるということである。

少数者や弱者が持っている意見を聞き、その中に未来の
国家の方針を発見すること。これによく努める国家こそ強
き国家であるといえる。

強者や多数者の意見は努力せずとも誰もが知りうる。故
に、そのなかには新しいものはない。少数者や弱者にこ
そ新しきものが潜在している。それじゃあ、現代の評論家
などはなんなんだ、と思われるかも知れないが、彼らもま
た少数者・弱者の類に属する。

少数派であるからこそ、そうではない多数大衆に対して
いうべき内容を持つのであって、そうでなければ大衆の
ほうで彼らを見捨てるだろう。ごく一部の、陳腐な論調を
繰り返すことが職業となってしまった宣伝マンのような人
を除いて。

少数意見が採用される可能性のあること、これこそが強
い国家の根本的条件である。これは民主主義だけの話
ではない。独裁制においても、封建制においてもいえる
ことである。(信長・秀吉をみよ)


★ 議会における少数意見の尊重

上のことを現代の議会政治にあてはめれぼどういうこと
になるか。議会において決定権を持つ「殿様」は、議会
議員の多数決である。

しからば、議会政治においては、「少数意見が(多くの
議員に認められて)、多数を制する可能性」の存在こそ
が最も重要なことであるといえる。

民主制における少数意見の尊重とは、単に少数者が
意見を述べる機会があるというだけでは不十分であり、
発案者以外の大衆がそれをよきものと認め賛意を
表する場がなければならない。

多数決の存在意義はここにある。多数決なしには、少
数意見が多数に支持されたことを現しようがないから
である。

少数意見は少数意見のまま採用されることは有り得
ない。多数者に認められて初めて採用されるのである。
だから採用された少数意見は正しくは「元・少数意見」
なのである。(少数のまま少数意見が採用されるのは
専制政治である)

この意味において、少数意見の尊重と多数決は矛盾
するものではなく、互いに必要としあう関係なのである。

新しきものを得るために多数決は少数意見に耳を傾
けることを必要とし、新しきものを採用させるために少
数意見は多数決を必要とする。


★ 議員の自由と政党


前段の少数意見の尊重を実現するためには、議員
個人が自由に考え行動できなければならない。そう
でなければ、少数派の意見は絶対に多数派議員の
支持を得ることはないであろう。

ここから党議拘束に対する反対論が生まれる。

各議員個人を政党の拘束から開放し、自由に討議
させるべきだということになる。出来うれば、政党自
体をも解散・禁止し、ちょうど小学校のクラス会のよ
うに、議員個人の頭と良識で議会を動かすべきで
ある、となる。

しかし、私の見るところ、これは無理スジである。

なぜならば、個人の集まりよりも、徒党を組んだ集
団のほうがはるかに強いからである。また、各議員
は、個人により重視する政策が違う。自分の軽視す
る議題については議決権を誰かに融通し、引き換
えに自分の重視する裁決に協力してもらう、という
ような取り引きが起こらざるを得ない。

党議拘束の廃止は、よりストレートな野合・利権争い
を生むだけなのである。

ではどうすべきか。

私の考えでは、結局のところ、そういう行為をしない
という盟約を結んだ者達の集団、という意味での政
党をたてるより他ないと思える。

武士は食わねど高楊枝、徒党もくまぬ、取り引きも
せぬ。もし我をしてその疑いあらば何人にてもかま
わず我を告発せよ、必ず身の潔白を証明してみせ
よう。

万一、潔白を証明できぬときには、罪が立証されず
とも、腹かっさばいて異心なきことを示さん。

....というような盟約のもとに政党を作り、その内部に
おいて「自由な討議」をする。政党とはかくあらねば
ならない。かかる稚気を持った人間でなければ政治
を面白くすることはできない。

それならば、とおっしゃるかもしれぬ。 国会議員全
員に盟約をたてさせよと。

だがそれは無理である。物理的に。

なぜならば、全員が盟約した場合、違反者の処分は
どうすればいいのだろうか、という問題が出てくるから
である。まさか議席剥奪というわけにはいくまい。

また、逆に、違反とする判定自体が間違いである可
能性もゼロではない。なのにほとんど議会から締め
出すような罰を加える権限があるのか、という問題も
ある。

それこそ少数意見の締め出しではないか。

一政党の盟約であれば、違反者を除籍するという
処分が成立する。処分されたほうも、比例代表制
の議員を除けば国会議員の身分に変わりはなく
活動を継続できる。

自分を除籍した政党のほうが間違っていると信じる
ならば、自ら新しい盟約政党を旗揚げすることもで
きよう。

このように、盟約政党はこの政党に属さない議員や、
他の政党を必要とする。

そして盟約政党同士の選挙戦は、どちらの政党が
気高い盟約を守っているか、どちらがよりよい自由
な討議をその内部に持っているかできまる。

すなわち、政党内民主主義をどれだけ育てている
かで決まるのである。

政党というものは、かかる崇高な精神の盟約と、内
部の自由民主を約束するものでるが故に存在価
値がある。

しかして、我が国の政党やいかに?

所属議員に気高き精神ありや? 政党内部に民主
自由の気風ありや?


★ 民主主義のしぶとい強さ


強い国家とは、新しきものを採り入れることの出来
る国家であると述べてきた。そしてそれに最も適し
た政体こそが民主主義(そして資本主義)に他な
らない。

資本主義のほうは、また別の機会に述べることに
して、ここでは民主主義の強さについて述べる。

新しきものを採り入れる国家が強い国家だといって
も、採り入れた新しきものが必ずしも優れたもので
あるとは限らない。

とんでもない誤った選択をすることになる可能性も
おおいにある。

それは馬鹿殿様の思い付きでも、審議を重ねた
議会の決定にでも、共にあり得ることである。
誰がやっても間違いは必ずあるものだ。

そんな危険を避けて、伝統的な生活に甘んじてい
れば安泰かというと、これもまた必ずしもそうでは
ない。

動くも危険、動かざるも危険、絶対の安寧などどこに
もありはしない。

では人はどうすればいいのか?

正しき答えを予見することはできないが、起こった
事態に対して処置をすることならば可能である。

そのために、どこへボールが飛んできてもいいよう
に玉拾いを配置することは有効な防衛方法である。

議会において政敵と討論をすること、少数意見に
耳を傾けること、こうすることによって事態が思わぬ
方向へ進んだときに玉を拾える範囲が増える。

そういえば誰かがこういう事態を予見してたなぁ、
ということになる。

議会制度のもとでなくても、このような意見の収集
は可能ではある。しかし、その場合には往々にして
生死のやりとりに発展する恐れを含んでいる。

気に食わぬ意見をいう人物を殺害すること、こと
政治に関しては頻繁におこる。だがこれは国力の
消耗以外の何ものでもない。

気に食わぬ政敵も議会の中にプールしておく、
これによって国家の後衛は厚みを増し、強い国家
となることができる。

ここにこそ、民主主義の強さの根元がある。

ということは、たとえ民主主義を名乗っても、政敵
を次々葬り去るような議会は民主議会本来の強さ
を持ち得ないことになる。

フランス革命後の議会などはその例といえよう。
もしあんなに殺しあわなければナポレオンの出
る幕はなかったかもしれない。

つまりは、民主主義の強さは、「正しい判断が下
せる」というところにではなく、「間違えたときに修正
がしやすい」という点にある。

では、とりかえしのつかない大失敗をやったら?

心配御無用。 国民が存在する限りやりなおしは効く。

なんせ国民主権というぐらいで、国民あるところ
国家あり、議会あり、やりなおしあり。

では、国民が滅んだら?

国民が滅亡してしまえば、そもそも「とりかえし」を
つける必要がない。「とりかえ し」をつけようと
する
国家や国民自体が、死滅してもはや存在しない
のだから。